✣ 沈黙の神様 ✣
一切皆苦。生も苦、老いも苦、病も苦、死も苦。人生は苦しみの連続です。せめて「苦しみ」の根源的な原因がわかれば慰めにもなり、解決策も立てられるのですが、思い通りにならないのが「苦しみ」です。
人生の「苦しみ」に対する最も原始的で直感的、かつ数多の宗教が主張する解答が「因果応報論」です。「悪い行い」をすれば、「悪い報い」として、病気や事故、身内の不幸、その他あらゆる災いと苦難がやってくる、という考え方です。この思想の危険性は、「幸福な人」には「善い行いの結果、今の幸いがある」として、権力者の蛮行や金持ちの悪行を正当化すること、また、苦しむ弱者には「悪行の結果、今の苦しみがある」と迫り、さらに多大な苦しみを負わせて憚らないことにあります。人は罪ある自己中心的な動物ですから、自分を甘やかし隣人を裁くために、この因果応報論を都合よく用いるのです。神様の愛から離れ、隣人愛から離れ、弱者を裁き、自分の悪行を正当化する。新約聖書における祭司や律法学者、ヨブ記におけるヨブの友人たちの態度がまさにこれでした。因果応報論に基づく彼らの主張は直感的でわかりやすく、また正当なように思えます。しかし、それは神様の御心なのでしょうか。
イエス様は明確に答えておられます。「(この人が苦しむのは)本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ福音書9:3)」今回は、ヨブ記からこの「人生の苦しみ」について聞きたいと思います。
●10月29日 週報巻頭言 教会員A
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