「放蕩息子」のたとえ
主イエスさまは、ご自身が十字架刑に向かう定めにあることを想われている時、天の父である神さまが、どんなに失われた人を探し求め、愛のふところへ招きたいかを、どうにかして知らせたいとの思いを持たれ、この「放蕩息子」のたとえを語られました。
★ある人に二人の息子がいました。弟息子は早々と財産の分け前をもらい、放蕩の限りを尽くして、財産を使い果たしてしまいます。そしてとうとう父のところに戻らざるを得なくなってしまいました。その時父は、弟息子を、仕方なしに受け入れるどころか、憐れに思い、一番良い服を着せ肥えた子牛を食べさせて大歓迎しました。一方、兄息子はその様子を見て不満がつのります。自分は何年も父に仕え、そむいたことはないのに子ヤギ一匹ももらえなかったと。その兄息子に対して父は、「兄息子よ、お前はいつも一緒にいるが、弟息子はいなくなったのに見つかったのだ。喜ぶのは当たり前だ。」となだめます。
◆私たちは、弟息子のように、自由奔放な生き方をしていようとも、兄息子のように、真面目にソツなく生きていようとも、神さまは変わることのない愛をもって、私たち一人一人を自分の子どもであるがゆえに、神の元に帰ることを待っておられます。
●6月25日 神学校週間礼拝 週報巻頭言 神学生 中根 淨(花小金井キリスト教会)
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