✣ あなたがたは幸いである ✣
キリストの十字架に目を向けると、見えて来るものがあります。神に従う“ひたむきな姿勢”、小さい者を尊ぶ“濁りのない愛”、更に神の子が低い所へ降る“気高い精神”です。
キリストに従うとき、私たちは「罪人」でありながら、十字架の“絶対恩寵”によって“義なる人”とみなされます。ここでいう“義”とは、「神の小羊なるキリスト」と共にある「我」を意味します。“義なる人”には、見分ける知恵が神から与えられます。
例えば、お金で「家」は買えても“家庭”は買えない、「薬」は買えても“健康”は買えない、「地位や名誉」と“尊敬されること”は別物だということをしっかり見分けます。
見分ける知恵が働くと、自分の足元にある「偽(ニセモノ)・ギ」を“義(ホンモノ)・ギ”に変える選び取をします。この選択には必ず試練が伴います。そこで“義なる人”は、祈らずにはいられなくなり、「主よ、助けてください…我を憐れみたまえ…」と、一所懸命、祈り始めます。これが《義に飢え渇く人々》の姿です。キリストは、《幸いだ…その人たちは満たされる》(マタイ5:6)と、力強く語りました。
他者はどうあれ、「私は“神の義”を選ぶ」という人を神は放っておきません。《幸い》はその人のものです。なぜなら、キリストが来て下さるから。 約束された《幸い》は時空を超えて“義なる人”を満たします。
●1月8日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
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