✣ イエスの眼差しをもって ✣
ドイツの哲学者のニーチェは、「あると思えば見える」という寸鉄人を刺す警句を残しました。物事の捉え方はすべての人に一律ではなく、それぞれの見方や固定観念に左右されるという意味です。それゆえにある人には見えるものが、ある人には見えないことがあるのです。要するに、私たちはどのような観点を持って生きているかが問われていると思われます。
聖書は、背の低いザアカイは大勢の人々に遮られ、イエスの姿を見ることができなかったため、窮余の一策としていちじく桑の木に登ることになったと言います。そして大勢の人々が彼の存在に気づいていない中、イエスは目を上げて「ザアカイ、降りてきてください」と彼を招かれたというのです。イエスと大勢の群衆との違いは何だったのでしょうか。
ザアカイは、お金持ちで徴税人の頭であっても、ユダヤの社会の中では「存在する非存在」でした。つまりザアカイはその社会に生きていても、周りの人々は彼を存在していないかのように扱っていたのです。しかしイエスは「存在する非存在」であるザアカイの存在をありのまま受け止めて、彼を招かれたのです。
「イエスの眼差しをもって」自分の周りを見渡すとき、これまで見えてこなかった「存在する非存在」がどれほど見えてくるのか、試してみてはいかがでしょうか。
●10月16日 週報巻頭言
秋の特別伝道礼拝 講師 朴 思郁 (日本バプテスト連盟宣教研究所所長)
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