✣ 神の不思議な介入 ✣
失敗したとき、「ことわざ」が心に浮かびます。「転ばぬ先の杖」「備えあれば憂(うれ)いなし」等々。「ことわざ」には含蓄があります。失敗してみて、初めて、もっと素直に聞けばよかったと後悔する。私だけでしょうか。信仰生活で失敗すれば、「もっと祈ってから行動すればよかった」「あの御言葉に従うべきだった」と、やはり後悔します。
信仰があっても、そこは生身の人間です。失敗もします。そんなとき、信仰の友が、「失敗しない人などいないから…」と、言葉を掛け、励ましてくれます。本当にありがたいことです。しかし、それでも尚、落ち込むのです。失敗は嫌なものです。出来れば失敗はしたくありません。
ところが、失敗にもよい所があります。人は失敗すると注意深くなります。失敗したことで、新しい発見をする場合もあります。長い目で見れば、失敗は成功への前段階(ステップ)であるとも言えます。それでは楽観的過ぎるという批判もありますが、キリストに従う人なら分かるでしょう。失敗しても、悔い改めて新しくされる“神の恵み”を知っています。新しくされるから悲観しないのです。聖書によると、キリストに従う人は失敗しても“主のもの(神の子)”です。ここに神の不思議な介入があります。
●9月25日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
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