✣ 祈りの決戦 ✣
『…いつの時代にも権力者は従順な者を賞揚(しょうよう:ほめたたえること)し、批判者を迫害する。神の民が、地の塩、世の光として生きて行こうとすれば迫害を恐れてはならない。…主にある一人の兄弟から便りをもらった…その文中に、戦時中ある有力な牧師が教会の集会で国防献金を強調したので、「聖書のキリスト教はいずこにありや」と正したとき、「貴下の申されるようなこと、壁に耳あり…発言に注意ありたし。教会の迷惑千万」と言われたと記されていた。…神の言葉を大胆に語り、世に向かって、非を非と指摘することの難しさを感じさせられる一文である。預言者の道は決して栄光や称賛の道ではない。…』〜榎本保郎著「旧約聖書一日一章337頁」
預言者エリヤはカルメル山でバアル神の預言者450人に対して、ただ一人で立ち向かう。そこにいた人々は神の民なのに、神(ヤハウエ)に期待せず、バアル神に心奪われていた。そこでエリヤは〈祈りの戦い〉を始める前に、【壊された祭壇を修復した】(列王上18:30)。
これは自分の生活を吟味して、神の方へ向き直る(祈りの姿勢を整える)ことを意味する。預言者エリヤに力を与えた神は、今も同じように私たちを勝利へ導く。御言葉に従うとき味わう幸いがある。
●8月21日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
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