✣ 渇きを潤す水 ✣
イスラエルの民の「荒れ野の旅」は続きます。レフィディム(「平原」の意味、シナイ山北西約20km)と呼ばれる所に来ました。そこには水がありません。民はモーセに向かって再び「不平」を言い始めます。「水を与えよ!」
彼らは“紅海の奇跡”を体験した直後にも同じ不平をモーセにぶつけました(出エジプト15:24)。その後、シュルの荒れ野では“甘い水”を十分飲ませてもらいました。また、シンの荒れ野に入った時には“天からのパン(マナ)”と“うずら(肉)”を与えられ空腹を満たしました。あの時のこと、素晴らしい体験を、民は忘れてしまったのでしょうか。
これまでの間、神はモーセに命じて民の必要に誠実に答えて来ました。それなら、これから先も、神は必要に応じて備えてくださるに違いない、そう信じるのが“信仰”です。神が民に求めているのは“信仰”なのです。
この時モーセは、「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」(17:2)と人々に語り、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。わたしを石で打ち殺そうとしています」(17:4)と、神に向かって本音で叫びます。モーセは、時が良くても悪くても、常に神の方を向いています。神の民でも「罪」を内包しています。特徴は、人間が裁判官の座に着き、神を被告席に座らせることです。
●8月16日 週報巻頭言 山田 幸男
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