「取り残されたトマスにも」
イースターを迎えると、こんなつぶやきが聞こえてきます。
「キリストの十字架はわかるが、復活はわからない」「十字架は信じるが、復活は信じない」
キリストの弟子の中にも同じことを言った人がいました。トマスです。彼は物事を理性的に判断する実証的な人でした。彼はわかっていないことをわかったようには言えない。正直な人です。正直であることは大切です。
しかし、それは裏返えせば「頑固」だとも言えます。自分の目で見て、自分の手で触ってみないと「キリストは復活した」と言えない。嘘は言えない。そのトマスも、他の弟子たちより一週間遅れて“キリストの復活”を体験します。トマスが“復活”を体験したきっかけは弟子たちの交わりへ戻ることでした。それは“礼拝”です。そこには復活を疑うトマスを排斥しない仲間がいました。
“復活したキリスト”は素直になれないトマスのかたくなさをものともせず、彼の心に入ります。“復活”はトマスごときが疑って崩れるようなものではありません。
崩れたのは“復活”ではなく、「トマスの罪」でした。その後、トマスは“キリストの足跡”を残しました。
●4月20日週報巻頭言 山田 幸男
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