祈りの中のクリスマス 2011.12.25
1)絆の中には傷がある
京都の清水寺で毎年暮れに発表される「今年の一字」。今年は、たくさんの人たちの予想どおり「絆」という一文字でした。東日本大震災という経験を受けて、たくさんの人たちが人間のつながり、絆の大切さを強く感じさせられた、ということに選ばれた理由があります。
この「絆」というキーワードをくり返し世論の中で用いてきたのは、ご存じ、北九州ホームレス支援機構の理事長で東八幡教会牧師の奥田知志先生です。昔から、野宿生活者やホームレスと呼ばれる人々へのケアーの活動はありましたけれども、彼は日本の中で先がけて「ホームレスの路上からの職場への復帰」「再就職・自立支援」というテーマでこの問題と向かい合ってこられました。ホームレスとは、よく考えれば、ハウスレスのことではない。住む家が無い人のことではない。むしろホームレス。家族の絆を失ってしまった人々だ。だからそのような人々に、ただ衣食住を提供するだけでは、ほんとうの意味で人生を取りもどしていくことにはならない。ホームとなる、人間の絆、人間の交わりをそこに提供し、回復しなければならない。そういって、NPOを立ち上げ東八幡教会と一体となりながら、絆の再生に力を注いでこられたわけです。
現在、内閣府の参与になられて、今回の大震災直後にも、「絆プロジェクト」を進言し、それが取り入れられて、多少、政府によって違うプロジェクトに変質してしまいましたが、「絆」というキーワードが広がる原動力になってきたキーパーソンでもあります。
先月、その奥田知志先生と、福岡の西南学院大学で講演会の仕事を一緒にしたときのことです。奥田先生は講演の中でこうおっしゃぃました。「最近、『絆』ということばがやけにはやっています。けれども、何か違うという感想をもっています。絆ということばを用いて人と向かい合おうとするなら、そこには共に生きていこうとするときに受けてしまう、痛みや傷があるものです。「きずな」という言葉には「きず」が含まれています。昨年はやったタイガーマスク現象。無名の人によって養護施設にランドセルが贈られ、それが次々と社会現象のように続いていった。そして美談として取り上げられた。しかし、裏を返せば、その匿名による援助には、『それ以上の深入りはできません』という心理が働いていると思う。つまり関わり合うことによって、こっちに傷を受けてしまうことを避けている行動でもある、ということが言えないだろうか。わたしたちの路上生活者への支援活動は、たとえばお弁当をもって近寄っていけば、目の前で、バカにするな!と投げ捨てられることがある。何週間もかかわってきて、いよいよ生活保護の手続き寸前というところで逃げられてしまうこともある。ふたたびけんかや万引きをして警察に戻ってしまう人もいる。そのたびに、こちらも傷つく。怒りがおこる。そして本人と正面切ってぶつかる。人とほんとうに絆をつくろうとすれば、それはこちらも傷を負い、痛みを味わう、でもそれでも関わっていこうという覚悟が問われるものだ。」そうおっしゃっるのです。
2)クリスマスの傷
クリスマスが引き起こされている場面を注意深く読んでいくと、神の子イエスを受けとめていくプロセスの中に、大きな痛みと傷があることを知ることができます。マリアがイエスの懐妊を受けとめていくために、同時に覚悟を決めなければならない痛みがあったことはいうまでもありません。ヨセフが、マリアとそのまま結婚することを決心したとき、ヨセフは、自分の感情との折り合いだけではなく、社会的なリスクを背負うことを覚悟しなければなりませんでした。そこには、痛みを予感し、傷を負うことへの決心がどうしても必要だったでしょう。しかし、そこで初めて生まれ始めた新しい「絆」がありました。神と人と人との三角につなげられた「絆」が動き始めたのです。この新しい絆への決心は、ヨセフの祈り、マリアの祈りを通して、受け取ることがようやくできるものとなったのです。
絆には傷がある。これは奥田さん流の「語呂合わせ」の言葉ですが、わたしは深い関係、本当の関係の中に潜む真理だと思えます。何と言っても、神が私たち人間と、父と子としての絆を結ぶために、神は深い痛みを決断され、具体的な傷を身に受けられたのです。主イエスの十字架は、まさに神の痛みの極地です。理解できない人間たちから、「お前など救い主などではない」、「おまえの神を見せてみろ」と侮辱の極みを浴びせられながら、むち打たれ、茨の冠をかぶせられ、手のひらに釘を打たれて十字架につるされ、脇腹をやりで突かれました。苦い葡萄酒を口にねじ込まれ、つばを吐きかけられました。このような痛みと傷とを自ら負いながら、神が人間に対して求めて下さっていたものは、罪赦され、贖われたものとして神の国に人間を迎えていこうとする「人間との絆」でした。神は絆のために傷を負われたのです。神のくださる「きずな」に「きず」がふくまれていました。
3)クリスマスの祈り
主イエスは、ゲッセマネの祈りで、その祈りの人生の頂点を迎えます。それはまさに、この「絆のわざ」のためには「この杯」を飲まねばならないのかという闘いでした。救いの絆のために、十字架の痛みはほんとうに必要なのですか、という問いでした。けれども、主イエスは、この絆を真実なものとして成し遂げるためには、その痛み、その傷から逃れられないことを祈りの中で受け取っていかれるのです。覚悟なさるのです。
主イエスは、しばしば、弟子たちから離れて、一人で祈ったと言われています。その祈りは何だったでしょう。おそらく、人々と関わる中で、人々と関わる中で、それらの人と共に生きるために何がもっとも必要だろうか。そしてそれらの人々との関わりによって身に受ける痛みと傷を、くり返し自分の中で想像し、それを受ける覚悟を決める、そのような祈りがなされていたのではないでしょうか。
クリスマスから始まる、神の救いのできごとには、神の痛みへの決断、ヨセフやマリアの痛みへの献身、そしてキリストご自身の苦しみへの覚悟が、祈りの中でつながっていくのです。
祈りは、誰もが知っています。祈りは、みんなが捧げます。しかし、わたしたちがクリスマスに、そして年末年始に教えられる祈りとは、このような「クリスマス」の背後にあった、「絆への祈り」のことではないでしょうか。
そして、東日本大震災という未曾有の出来事を経験した私たちが、なすべき祈りもまた、そこで捧げられていくべき祈りもまた、痛みへの共感の祈りであり、つながりや絆を結べるだろうかという不安の祈りであり、結ぼうとしたときに私たちに求められる痛みがあるとしたら、それは何だろうかという問答の祈りです。そしてわたしは、そこでわたしに担えるだけの、傷を負うことができるだろうか、悩みの祈りです。しかし祈るものは、それを問うものなのです。そして、絆づくりに心を開こうとするものにとって、大仰ではないけれどもできるだけのつながりをつくりたいと願うものにとって、何よりも必要な業こそが、祈りであります。
4)キャンドルはしるし
クリスマスには、やっぱりキャンドルサービスが似合います。昨晩は、電灯をつけた中での音楽礼拝でしたから、今日は、朝なのに暗幕まで張って、礼拝堂を暗くして、一人ひとりがキャンドルを手にして燭火礼拝を捧げています。これは、何もクリスマスらしい雰囲気を味わいたいからではありません。人の顔がよく見えるために、文字がはっきりと読めるためにローソクの火を持つのでもありません。それならば、はじめから電灯をつけた方がいいのです。そうではなく、このキャンドルは、私たち一人ひとりが、イエスさまという存在をこの身に受けとめようとしていることの「しるし」だからです。そして、わたしという存在の意味性も、このキャンドルの光から学ぶための「しるし」だからです。
キャンドルの光は、飼い葉桶に生まれたイエス・キリストの「しるし」です。もっと暗ければはっきりわかると思いますが、薄暗い中でも、キャンドルの炎が周囲の闇の方に光を放射しているのがわかるでしょう。
イエス・キリストがこの世に来られ、寝かされた場所は、暗く貧しい飼い葉桶でしたが、その小さな低みの極みである飼い葉桶から放射した光は、「柔和」「優しさ」そして「希望」の光でした。でもそれこそが、いま、世界がほんとうに必要としている力ではないでしょうか。「柔和」は、あらゆる憎しみと暴力への答えとして。「優しさ」は、人間が思いやりや共感する心や慈愛を失いつつあることへの答えとして。「希望」は、孤独のまま捨て置かれる人や、人生への意味を見いだせない人たちへの答えとして。その光は、大きなひかりではありません。それを手にした人に届く光です。照らされているのは、わたしなのです。クリスマスの光は、何を隠そう、このわたしへのコンタクトなのです。
5)キャンドルには芯がある
ちいさなキャンドルです。それでも、これが光である以上、暗闇に対しては決定的に勝利しています。どんなに小さな光でも、暗闇がそれを呑み込むことはできず、むしろキャンドルの光を動かせば、切り裂かれていくのは闇の方です。一挙に全体を明るくするような光ではなく、(人間はそれにあこがれますが、そういう光ではないところが意味深い)光がわたしにコンタクトし、そのわたしがこの光を持ち運ぶところが照らされていく。そういう光を手にして生きる、それが、人が信仰をもって生きていく実際的な姿を現しているのではないでしょうか。キャンドルを見てください。一人ひとりのキャンドルには「芯」があります。このキャンドルの炎には「芯」がある。でも、礼拝時間も進みましたから、その芯がずいぶん短くなりましたね。わたしは、この芯にキリストが重なります。自らの命を捧げ、削り、身を溶かしながら、全ての人々に、生きるに必要な信仰と望みと愛の力を放射した、主イエスの生涯。それが新しい命の光の「芯」です。
私たちも、しばしば愛を語ります。しばしば平和を語ります。そして希望を口にします。でも、その愛に「芯」はあるか、と問われたら、わたしたち自身が、光の芯ではとうていありえません。わたしたちではない。わたしたちの何かの力が、平和の芯なのではないのです。それらの「芯」は、イエス・キリスト。私たちは、私たちの内に、「芯」を迎え入れ、私が溶かされ用いられながら、真の光の放射へと奉仕することを、求めていきたいと思います。
この小さな芯は、時を経て燃え尽きます。主イエスもそうでした。しかし、主イエスは、そのすべての祈りと痛みと傷とを受け、ご自身を燃やし、ご自身を溶かし、与え捧げられたのち、三日後に復活をなさいます。そして、もはや消え去ることのない、信仰と希望と愛の芯となられて、信じるわたしたちの永遠の光の源となられました。
クリスマスと十字架と復活。イエス・キリストは、光であるために生まれ、光であるために傷つき、光となって永遠を生きておられます。
6)祈りは光のわざ
小さくて良い。でもこのキャンドルの光のように生きる。光を受け、光を返して生きる。そのための道は、祈りにあります。ヨセフが、マリアが、主イエスが、祈りを通して光を灯し続けたように、わたしたちも祈りの中で、人々の悲しみをわかろうとし、それを突き破る喜びを願おうとし、もし自分にできることならば、と(祈りの中で)求めさせられていくのです。人が、繋がろうとするとき、イエス・キリストの傷の絆に支えられるのです。その絆は、日々の祈りによって確かにされるのです。
この祈りが、祈り続けるわたしが、きっと、わたしを必要としてくださる誰かとの絆へとわたしを導いてくれるでしょう。
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