お言葉どおり、なりますように
ルカ福音書1:26−38
1)二つは一つ
フランスの有名な美術館には、二枚の絵が縦に並べられています。その上の方の絵は、生まれたばかりの赤ちゃんを腕に抱いて、ふくよかな笑顔を見せている母親の絵です。まさに、母親としての至福の時を得ているかのようです。下の方の絵は、兵士の制止を振り切ってわが息子が張り付けられた十字架にすがりついて泣いている母親の絵です。その顔は苦痛と悲しみにゆがみ、母親として受けなければならない最大の悲劇が描かれています。
この二枚の女性は、一人の女性です。御子イエス・キリストの母として、神のみこころの生命を体に受け、また神のみこころ故に、母としてイエスの死を身に彫り込まれることになってしまったマリアの、対称的でありながら一つの共通のメッセージを表現した絵ではないかと思います。
キリストの母とされていったマリアの人生は、「クリスマス物語の美しい脇役」という点だけでは理解することが不可能です。受胎告知、マリアにとって、「母となる喜び」というモチーフではなく、キリストを迎え入れるとまどいと苦しみ、キリストに刺し貫かれる痛みと、しかし、そこにこそ注がれている神の祝福という深いモチーフを持っていると言えます。
2)恵まれた女?
「恵まれた女よおめでとう」。突然、何の脈絡もなく御使いの知らせがマリアを直撃します。大きな衝撃がマリアを襲います。「あなたは身ごもっています。その胎内の子は神の子です。おめでとう。」というのです。
冗談ではありません。そんなものが「恵み」でしょうか。言葉でいくら「恵まれた女」と言われても、「それは恵みだ」と連呼されたとしても、それは恵みなんぞではありません。どう考えても迷惑ですし、じっくり考えれば考えるほど理解できないのです。
「自分が願っていたことが叶えられる」とか、「自分が待ちこがれていたことが実現する」、それならすぐにでも恵みだと理解できましょう。けれども、期待もしない、予想だにしない、しかも困ったことになる。どうしてそれが「恵み」でありましょうか。
事実、この「恵み」によって困ったことになりました。マリヤは、身持ちの悪い女だと陰口をたたかれて生きなければなりませんでした。子どもを出産するときにだって、彼女は屋根の下で出産することを拒絶されました。(泊まる場所がなかった、の「場所」とはトポス・居場所のこと)、どこにもいさせてもらえなかったのです。拒絶されました。人間を出産する場所とはとうていない思えない家畜小屋で産むしかなかったのでした。マタイ福音書によれば、出産後ただちに彼女は、この赤ちゃんを連れてエジプトに逃亡生活をしなければならなくなります。そしてやがてナザレにもどってからも差別は激しく、ヨセフは石切の仕事、羊飼いと共に最も低下層の人々にあてがわれた仕事をして生きていきました。やがて、わが子が30歳を迎えた頃、当の本人が「時が来た」といって母の元を離れ宣教活動に旅立っていく。挙げ句の果てに、ユダヤの指導部から指名手配書が廻るようになり、そして逮捕され、エルサレムで犯罪人の一人として息子が処刑されていくのです。「恵まれた女よおめでとう」と呼びかけられて始まった彼女の人生ですが、マリアにとってそれは、まさに身を差し貫かれた人生ではありませんか。
いったい「恵み」とは何なのでしょうか? 思いがけなく嬉しいことがあった時、「今日は恵みをいただきまして」と私たちは口にします。それは嬉しい故に「恵み」と言い表すことが最もふさわしい、そういう実感からきます。しかし、私たちがそのような嬉しい実感を伴って語っている「恵み」というものと、マリアが受けなければならなかった「恵み」とはどうしても同じものだとは思えないのです。
3)お言葉どおりに
マリヤにとってそれは不可解なままでした。ガブリエルは言います。「あなたは神から恵みをいただいた」と。「その子は偉大な人になる」と。「神にはなんでもできないことはない」と。凄い言葉の連続です。しかし、その言葉はそのまま即、マリアにとって「幸せになれる」という確証の言葉ではありません。「イエスが大いなるものである」ということは、実際には、マリアが出世した息子の晴れ舞台を見ることができた嬉しい母だったということとはほど遠いものでした。息子イエスが、「ほんとうにこの人は神の子だった」と告白されるのは、まさに十字架の場面においてだったからです(百卒長のことば)。
「神には何でも出来ないことはない」という確かに天使は言いました。だからといってマリアにとって実際には「何でも欲しいものが手に入る」という意味ではなかったのです。「神にはできないことはない」ということは、まさに、人間の罪の赦しを、神が御手に引き受けて、神の子が人間の身代わりになって十字架で苦しむようなことさえ神にはおできになる、という意味をもった言葉でした。しかし、そのような「神のみこころ」が、この時のマリアにわかったはずはないのです。
ですから、マリアは、「恵み」といわれても不可解なままでした。「恵まれた女」と呼びかけられても、何がどう恵まれるのかは分からないのです。いいえ、直感としては、「結婚前に身ごもる、これはたいへんなことだ。処罰されてしまう。」「ヨセフを巻き込んで、人生が狂ってしまう。」。それは、すぐにわかりましたから、もうとにかく、後でどんなに恵まれるのか知らないけれど、その子が大いなるものになるかならないか知らないけれど、とにかく「嫌です」「お願いです、やめてください」という気持ち以外持ちようがなかったはずです。
しかし、どんなに不可解でも、どんなに抵抗しても、どんなに「これは嬉しい知らせだ」という実感を持てなくても、もはや神さまのなさることなのです。恐ろしいまでの衝撃を受けながら、そのような中で、人間として神の前に立たされた時に、人間にかろうじて語り得る言葉があるとするならば(そしてこの言葉を人間はなかなか簡単には言うことができないのですが)、その言葉こそが、
「わたしは主のはしためです。お言葉どうりこの身になりますように」
なのではないでしょうか。もちろん、この言葉は納得の言葉ではありません。よく言われる「謙遜の姿」でもありません。
人間というものは、神のみこころの前に、不可解なまま立つしかない、なんと力無きものでしょうか。そして、神のみこころとは、なんと、人間を揺さぶり、人生を差し貫き、苦しみを与えながら、与えられるなのでしょうか。その、「神の大いなる恵みの業」を前にして、人間は、ただ不可解なまま立ちすくむしかないし、そこで、「私は主のはしためです」としか言いようのない、なんと限界を知らされてしまうものなのでしょうか。
4)母と子のつながり/ みこころのままに
「お言葉どおり、この身になりますように」。
拒絶の中で、この言葉と同様の言葉を語られた方がいますね。このマリアの子である主イエスが、ゲッセマネで祈られたときの言葉です。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)。
神の御心と人間、神の救いと人間。そこには人間の嬉しい実感とか喜びの実感で捉えようとしても、どうしてもできない「断絶」があるように思います。言い換えるなら「神の恵み」と「人間の恵み」の間の断絶です。
神の救いの恵みは、主イエスにとって、この世にあっての最大の苦痛を背負うというかたちでしか成し遂げられませんでした。母マリアと主イエスは、共に、神の大いなる恵みの業のもとで刺し貫かれてしまう苦しみを背負わされました。そして二人とも、この言葉を語ります。「お言葉が、御心がなりますように」。
「神の恵みの業」の前で、人間が結ぶしかない言葉こそ、「わたしはあなたのしもべです。お言葉が、御心がなりますように」という言葉です。
5)不可解さの恵み
しかし、今、わたしたち人間は、神の恵みというものが不可解でしかない、ということに一つの希望を与えられるのかもしれません。自分の嬉しい実感の問題として恵みを捉えようとすれば、「恵み」は不可解であっては意味がないのです。けれども、視点を移してみたいのです。
東日本大震災で犠牲となった子どもたちは650人を超えます。何を失った人たちよりも、この子どもたちの親たち、とりわけ母親の苦しみはいかばかりでしょうか。どんな慰めの言葉も癒せないでしょう。母親たちには「なんでや」という悲痛な叫びしかないはずです。時間が経ったとしても、あるいは「みんなも被災したんだから」と考えようとしても、ご遺族にとって、「どうして」という怒りと悲しみは、いつまでも込み上げてくるのではないでしょうか。人間が、どんなに意味づけようとしても、また納得しようとしても、のみこめない、癒されない「不条理と不可解」とがそこにはあります。つまり、人間には、もはやどのような言葉をもってしても、あの母親たちにあの遺族に「恵みです」と語れる力はない、ということです。
人間の世界に、「喜び」はたくさんあります。人間が生み出すものの中にも「恵みです」と祝えるものはいくらでもあります。しかし、どうしても、そして誰一人として、もはやそのような時、そのような場では、「それは恵みです」と語れることが、決してできないような場面があるし、そういう時があると思います。そこに、「人間というものが、究極的には救いをもたらすことができないのだ」というどうにもならない限界線があるのではないでしょうか。
しかし、(このことは、気安く言おうとは思いません。神にすがりつくような気持ちで言うのですが)人間にとって不可解で理不尽でどうにも理解できない、いいえ、引き裂かれるような苦しみしか見えないようなただ中で、「神の恵みはあなたの人生を扱っている」「神の恵みはあなたを包んでいるのです」と言うことができる存在があるとするならば、それが神さまなのです。苦しみもがく人間の現実も、神さまの救いの捉えきれない御業の中で「ある」。それだけではなく、実は、神ご自身が、キリストご自身が、自らもその苦しみ、痛みを身に受けながら、救いを打ち立てようとされている。そのことに目を向けさせられる一点において、私は、神の恵みが不可解であることの中に、真実の救いというものがある。そのことをマリヤの受胎告知は聞かせようとしてくれているのではないかと思うのです。
身もよじれるような母たちの涙と叫びに対して、誰も「恵まれた女よ」と呼びかけられはしない。ただ、そこにキリストが生まれ、そこでキリストがその女たちの胎をひらいて生きるものとなり(そう!生まれ得ぬところから命を宿し)、そしてその苦しみを背負い、しかも、全ての人々の罪と苦悩とを赦す御業を、今も成し遂げようとされている。そして、神は、その死んでいった子どもたちと、苦しめる母たちとを、キリストと共によみがえらせ、神の正しさの完成のいのちとして再び起こしてくださるという、この神さま、「生と死」の主としてのる救いの御業からのみ、そこからのみ、彼女たちに「恵まれた女よ、おめでとう」という言葉は発せられるのではないかと思うのです。
6)二つは一つ
フランスの有名な美術館には、二枚の絵が縦に並べられています。上の方の絵は、母に抱かれ、静かに眠る赤ん坊の絵です。もっとも小さい姿でありながら、最も幸せな表情を見せています。下の方の絵は、人々が指さしてあざけり笑う中を、十字架に張り付けられながらも天を見あげて祈っている方の絵です。額から、掌から、そして脇腹から血を流し、痛みに身体をよじらせながら、神に向かって人々の赦しを叫ぶあの方の絵です。
このあまりにも激しく違う二枚の絵は、しかし、一人の救い主の人生の意味を共に描いています。その証するメッセージは一つなのです。クリスマスはすでに受難を含み、受難はクリスマスから始まるのです。人々の罪のために苦しむ、この神のみこころを託されて生まれた赤ん坊こそがキリスト・イエスです。ガブリエルは、神が人間の罪のために苦しむ決断をなさったことを携えて一人の女のところに来たのです。そこに人間の理解を超えた神の恵みがありました。
神にはできないことはありません。神だけが、誰も慰めることの出来ない人間の苦しみの場に立つことがおできになります。神だけが、人間が言葉を失う場所で、赦しと救いの言葉を放つことがおできになります。神だけが、馬小屋で生まれることがおできになり、十字架で死ぬことができます。イエス様の人生は、人間の人生の喜びをかけ離れています。だからこそ、イエス・キリストしか、放つことの出来ない光があったのです。
「神には何でもできないことはありません」。
「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」
了
|